”地域”について考えた。
『地域創生』、『地域おこし』って何なのか。
『地域おこし協力隊』の増田です。
2018/4/15にこの記事は書いています。
たぶん、ただの長文駄文です。
地域おこし協力隊に着任し、1年と9か月を迎えています。
そもそも自分は「地域を活性化させてやるぞ!」というような意気込みをもって協力隊に応募した訳ではありません。
むしろ興味ありませんでした。
無論今もありません。
この先もないでしょう。
この人間社会に【世界平和】なんて存在するのでしょうか?
世界平和を謳いながら、なぜ人は武器を作り続けるのでしょうか?
学生のころに出会ったある人(KJ)が言っていた。
『自分の周りの人間を笑顔にできないヤツが世界を平和にできるわけがない。』と。
『自分のことを嫌いになる人、邪険にする人なんか放っておけばいい。自分のことを大事にしてくれる人、信頼してくれる人を大事にしよう。』
21歳位ぐらいからのオレの行動の根幹はこの言葉にある。
自分の大事な人たちを笑顔にできなくて何が出来ようか。
ときが経ち、和束と出会い、地域おこし協力隊となった。
そもそも住民は『地域をおこしたいのか?』そんなことを考えながら和束に住民票を移した。
引っ越してくると、近隣の住民さんは口々に「こんな所のどこがええの?」とか「都会の方が便利ええのに」と言う。
「来てくれてありがとう」とか「がんばってくれてんねんなー」って言うてくれる人がいる。
たぶんこの言葉を口にする人はきっと、漠然と『地域創生』とか『人口減少』とかに対して危機感をもっているのだろう。
ただ自分からすれば、これまでは与えられた仕事をしているだけであって、感謝される意味が自分としてはわからない。
協力隊を2年目を迎えたときに、観光担当やしツアーみたいなことしようと思ってやったのがこの企画でした。
はらだんという女性に出会ったのもKJのおかげでした。
ただのツアーなんかしたくないし、和束を知らない人へ向けた発信をしたくて協力してもらいました。
自分が『地域おこし』と肩書があり、彼女は最初『地域おこしイベント』と言ってくれていました。
でも、この時自分は前述したように、『住民は地域をおこしたいのか?』と考えていた。
『地域おこし』って表現は、「なんかおこがましい感じがする」から止めてほしいとお願いした。
そもそも住民はそんなことしてくれなんて頼んでないのである。
中学生の頃ぐらいからテレビで聞く『地方』という言葉には疑問を持っていた。
「東京以外は地方なのか。」と。
オレら関西人からしたら、「東京が地方じゃボケェ」って。
この頃から『地方』って言葉がキライでした。
じゃぁ、『地域』って何なのか。
行政区画なのか。○○地方なのか、都道府県なのか、市町村なのか、もっと小さい区画なのか、近隣住民なのか。
すべてが『地域』である。
何の定義もなされていない『地域』を『おこす』とは何なのか。
地域おこし協力隊になり、初任者研修というのを受けてきた。
小さな集落には、お爺さん・お婆さんだらけである。彼らは自分たちが居なくなればこの村がなくなってしまうことをわかっていた。でも、何もアクションを起こしていなかった。
そこへ若い人が来て生活するようになった。彼が、お爺さんに「今後この村はどうなる?」と聞いた。
お爺さんは憤慨し、「そんなことワシに言わせるな!」と言った。
若者とお爺さんは接するうちに、打ち解けていき、村を存続させられるように行動するようになった。
とこんな話を聞かされた。
地域おこしとはこういうことだと言わんばかりに。
そもそも認識を変えなければならないのか。
変えてまで市町村というものを存続させなければならないのか。
人口は今後も確実に減少していく。
そして、減少していく中で、小さな市町村は、様々な施策を出すことで若年層の取り合い合戦をしているように私は感じる。
一方で、都市には人口が集中している。しかも、よそから入ってくる人は定年を迎えた人が圧倒的に多いらしい。
同じように若者も大学進学をきっかけに都市部へ出てしまう。
少子高齢の現象は日本全国に起きてる。
各自治体が躍起になって若者を住まわせ、働いてもらうために様々な優遇措置を取っている。
若者の絶対数には限りがある。
この取り合い合戦が本当に正しいことなのか。
また、都会には人口集中による課題がある。
長い通勤時間、満員電車、介護の担い手不足、働けるのに働かない、などなど。
ここで、課題をいったん整理しておく。
大前提として、日本は少子高齢国家である。
①若年層の取り合い
②高齢者の都市部集中
③進学による人口減少
この3つに関して書き記す。
①について
”若年層”の意味は実用日本語表現辞典によると
ということだった。私は40才未満を若年層と定義する。
Wikipediaによると、”地方創生”という言葉は2014年の第二次安倍内閣発足の際に用いられた言葉のようだ。
きっとこの頃から、若年層が自分の市町村に引っ越してもらえるように様々な施策をだすようになったのだろう。
これらの活動は大事であり、続けていくべきものである。
しかし、協力隊として活動しているうちに、『移住してくる人って限りあるんちゃう?都会の方が便利やし、仕事いっぱいあるし、娯楽いっぱいあるし。』と考えるようになった。
こういったことを考える一方で、学生のボランティア団体と接する機会を多く持つようになった。
日本のボランティアというものには少し嫌悪を感じている。”賃金を払わなくていい労働力”という感じがするからだ。
彼らは和束のことを考え、思考し、行動してくれる。
もちろん、彼らのような人が住んでくれるに越したことはない。
しかし、彼らを取り巻く社会、血縁者、教育機関はこのような進路に対して批判的である。都市部への就職を促し、”真っ当”と呼ばれてきた道へ導くのである。
彼らがそれで納得するなら構わない。
多くの人は”真っ当”と呼ばれている道へ行ってしまう。
彼らのような人に依存する体質はよくない。
でも、彼らのような人がいくつかの市町村に関わり続けてもらうことが、過疎地域を救う1つの手段になりえると考えている。
②高齢者の都市部集中と
なぜ、高齢者は都会へと向かうのか。
便利がよかったり、医療福祉施設が充実していることが大きな要因であると考えられる。また、老々介護という課題も存在するのだろう。
若年層が都市部へ出ていくことの要因の1つに職がないということをよく耳にする。
小さな市町村単位もしくは、いくつかの単位で介護施設を作り、運営すればよいのでは?と考える。
しかし、団塊の世代がこの世を去ったあと、この施設をどう利用するのかまで考えなければならない。
③進学による人口減少
そもそも大学という建物に通うことが必要なのか?
これだけ通信技術が発達しているのにもかかわらず。
高校卒業なんて通信教育で済ませられている。
国からの巨額の補助金を使い大学が作られている。
オーストラリアのニューサウスウェールズ州は1917年から小学生に向けてラジオで授業を実施し、現在はインターネットで授業を受けている。
どこにいたって授業は受けられるのである。
言いたいこと。
過去を生きてきた人たちが作り上げてきた社会システム組織は、今を生きる・未来を生きていく若年層が作り上げていく世界はまったく異なるものになるだろう。
人口減少を食い止める、歯止めをかけるのは不要なことだと考える。なるべくしてなっているのだろう。
日本はもっと小さくまとまればいい。
こんな小さな国が経済大国として成立していたのには、大きな無理があったんだと私は思う。
過去に「2位じゃダメなんですか?」という言葉が問題視された。
これ以上の経済の発展って必要なことなのだろうか?
技術革新は必要なことだろう。
私は現在、限界集落と呼ばれる地域に住んでいる。
大阪市内に住んでいたときと生活スタイルにそんなに違いがあるとは感じない。
しいて言うなら娯楽施設がないことだろう。
生きていく中で、なにが必要なのかを考えていかなければならない。