和束は天皇家ゆかりの地?
お茶の京都博で盛り上がりを見せている町の一つがここ和束町
国道163号線から府道5号線を走り、開けたところから見える茶畑に囲まれた山。
そして、ちょこんと残るこの林。
見たことがある人は、「なにあれ?」と思ったでしょう。
あの山は地元の人には太鼓山と呼ばれています。
【目次】
安積親王墓
みなさんは安積親王という人物をご存知でしょうか?
太鼓山は彼のお墓と言われる古墳です。
茶畑がすぐそこまで迫ってきてますね(笑)
この古墳は明治11年に古絵図から聖武天皇の皇子として治定されました。
戦前までこの辺りは松林だったが、戦後の茶業振興策で山の斜面が開墾され茶畑に囲まれ、現在の姿になりました。
彼は、皇位継承者でした。
和束は恭仁京から紫香楽宮に遷都するの通路となっていて、ここで、よく狩りを楽しみ、民に慕われていたんだそう。
しかし、17歳の時に暗殺され、悲しんだ人たちがここに弔ったと言われています。
行基が親王の冥福を祈るために正法寺を建てたという史料が見つかったことで、安積親王の墓だと言われています。(安積親王の墓の所在は諸説あるそうです。)
現在は宮内庁によって管理され年に一度3月に祭事があります。
暗殺の背景、安積親王の父とは?
彼の父は歴史の教科書にも出てくる聖武天皇
聖武天皇といえば、東大寺や国分寺、国分尼寺の造営をを行った天皇として知られています。
彼は、皇后に光明皇后(藤原不比等の子)、夫人に県犬養広刀自を置いていた。正妻である皇后との間に男子が生まれることがなく、県犬養広刀自との間に男子が生まれた。それが安積親王であった。
慣例どおりにいけば、安積親王が天皇になるはずだったが、面白く思わなかった藤原四子(不比等の子である武智麻呂、房前、宇合、麻呂)、が暗殺したと言われています。
歌に詠まれる安積親王
”我が王天知らさむと思わはねば凡にぞ見ける和束杣山”
と大伴家持に詠まれ『万葉集』の第三巻476首に載っています。
通釈
”我が主君がそこに埋葬されるとは思いもしなかったので、おろそかに見て過ごしてきたものだ、この和束杣山を”
大伴家持は宴会に安積親王と同席するなどして親しくしていたようで、亡くなったことを深く悲しんだようです。
活道ヶ丘公園にはこんな石碑があります。
豆知識
①杣山とは、「杣」は木こりを意味しています。かつては木で栄えていて、東大寺の材木にも使われていたと言われています。
②万葉集には「和豆香」と表記されています。理由はわかりませんが、時代が変わり和束になったようです。
おわりに
当時から、和束の人たちはよその人に対して大っぴらな気質があり、安積親王を親しんだだと思います。
これは今でも同じで、銭湯に行ったり、お店に入ると話しかけてくれるような町です。
和束にお越しの際は町内の人との会話を楽しんで帰っていただきたいと思います。